เข้าสู่ระบบ「……いつだ」「王都にて、奥様が夕食の席で倒れかけた翌日でございます。奥様付きの医師と侍女頭に確認を、と」 記憶の底に、薄い影が浮かぶ。 あの日、彼は何と言った。 多忙だった。王宮からの呼び出しが続いていた。取引の問題もあった。リュゼリアの体調について、医師が診ているならそれでよい、と短く返した覚えがある。 そこで止めたのは自分だ。 クラウスではない。 ヴィルレオは手を握り込んだ。 爪が掌へ食い込む。「そうか」 それだけを言うのが精一杯だった。 クラウスは責めなかった。 その沈黙がかえって重い。「旦那様」 やがてクラウスが静かに言った。「今からでも、できることはございます」「……ああ」「すぐに手配いたします」 クラウスが出ていく。 扉が閉まると、部屋の中にはまた雨音だけが残った。 ヴィルレオは机の上の診断書を見つめた。 摂取物の精査を要す。 その一文は、ただの疑いにすぎない。 まだ何も確かではない。 それでも彼には、リュゼリアが毎朝何の疑いもなく薬を飲み、茶を口にし、苦しみを病の一部として受け入れてきた姿が浮かんでしまう。 奥様のためです。 よく眠れますように。 咳が楽になりますように。 そんな言葉の下で差し出されるものを、彼女は拒めなかっただろう。 いや、拒む理由を持たされていなかった。 彼女はいつも、与えられた苦しみに名前をつけるのが遅かった。 冷たい沈黙を、夫の多忙だと思おうとした。 孤独を、妻としての務めだと思おうとした。 身体の異変さえ、病なのだから仕方がないと飲み込もうとした。 その従順さにつけ込んだ者がいるのなら。 あるいは、悪意ではなくとも、彼女の身体を軽んじ、眠らせておけばよい、静かにさせておけばよいと考えた者がいるのなら。 ヴィルレオの中で、低く冷たい怒りが音もなく広がっていった。 怒鳴り散らすような怒りではなかった。 もっと重く、もっと底冷えのするものだった。 だが、その怒りの奥に、どうしようもない恐怖がある。 もし、本当に何かが混じっていたとして。 もし、それが彼女の命を縮めていたとして。 その時間は戻らない。 奪われた食欲も、眠らされて失われた夜も、脈の弱りも、咳の深まりも、彼女が「自分の病だから」と受け入れてしまった苦しみも。 戻らない。 ヴィルレ
ヴィルレオの指先が、紙を強く押さえた。 紙は薄く、破れそうだった。だが力を緩めることができない。 なぜ消えた。 誰が消した。 医師が自ら判断して削ったのか。誰かに求められたのか。あるいは、正式な診断書が屋敷の中を通る過程で差し替えられたのか。 問いが一気に立ち上がる。 そして、そのどれもが、リュゼリアの咳へ繋がっていく。 夕刻以降の傾眠傾向。 そういえば、王都にいた頃のリュゼリアは、夜になるとよく眠っていると報告されていた。体が弱いから。疲れやすいから。薬が効いているから。そんな説明を聞いて、それ以上考えなかった。 食が細いことも、病のせいだと思っていた。 顔色が悪いことも、病のせいだと思っていた。 指先が冷えていることも、歩く速度が落ちていることも、夕食の席で時折言葉が途切れることも、全部、病のせいだと。 病は確かにあった。 それは疑いようがない。 けれど、もし。 もし、その病の影に隠れて、別のものが彼女の体力を削っていたのだとしたら。 彼は椅子から立ち上がった。 急に立ったせいで、椅子の脚が床をこすり、低い音がした。控えの間にいたクラウスがすぐに扉を叩く。「旦那様」「入れ」 クラウスが入ってきた。 夜更けにもかかわらず、その身なりは乱れていない。いつ呼ばれても動けるようにしていたのだろう。彼はヴィルレオの顔を見るなり、ただ事ではないと悟ったらしく、余計な挨拶を省いた。「何かございましたか」 ヴィルレオは机の上へ二枚の診断書を並べた。「読め」 クラウスは静かに近づき、まず正式な診断書へ目を走らせた。次に、控えの紙へ視線を移す。 その目が、ほんのわずかに鋭くなる。「……こちらの一文が、正式な書面にはありません」「ああ」「摂取物の精査を要す、と」 クラウスの声は低かった。 ヴィルレオは机に手をついた。「王都の本邸に残っているものをすべて洗え。リュゼリアが飲んでいた薬、茶、蜜薬、食事に混ぜられていたもの、医師からの処方、薬局からの納品、侍女頭の記録、料理場の記録、全部だ」「承知いたしました」「明朝を待つな。今すぐ使いを出せ」 クラウスは一拍だけ黙った。 それは躊躇ではなく、必要な手順を頭の中で組み立てるための沈黙だった。「王都は雨です。夜間の馬車は危険ですが、馬を替えれば夜明け前には本邸へ通達
雨は、夜になっても止まなかった。 激しく叩きつける雨ではない。窓硝子に細い指を滑らせるような、静かな雨だった。けれど、その静けさがかえって館の中の音を際立たせる。暖炉の薪が崩れる音。遠い廊下を歩く使用人の足音。壁の向こうで扉が閉まる気配。雨粒が窓枠に溜まり、時折、小さくこぼれる音。 ヴィルレオは、そのすべてを聞いていた。 寝室へ戻れと言われたわけではない。誰も彼を咎めてはいない。けれど、リュゼリアの部屋の前にいつまでも立っているわけにもいかず、彼は隣の小さな控え室へ移っていた。 灯りは落としていない。 机の上には、未処理の書類が広げられている。王都の屋敷から運ばせた帳簿の写し、使用人の配置表、リュゼリアの療養に関する医師の報告書、別邸で必要な物資の一覧。 どれも目を通すべきものだった。 だが、文字はまるで紙の上で冷たく沈んでいるだけで、彼の頭へ入ってこなかった。 昼間のリュゼリアの咳が、まだ耳の奥に残っている。 細い身体が長椅子の上で折れるように前へ傾き、喉を裂くような咳をこらえ、呼吸を探していた。手を伸ばしかけた。けれど、触れていいのか、どう支えれば苦しませずに済むのか、それすらわからず、彼の手は途中で止まった。 結局、動けたのはアイダだった。 自分は立ち尽くしていただけだった。 何かしたいと思った。 けれど、何をすればいいのかわからなかった。 それは今に始まったことではない。ヴィルレオは、ずっとそうだったのだろう。彼女が苦しんでいた時、自分は何を見ればよいのかわからぬふりをした。何を聞けばよいのかわからないから、聞かなかった。どう触れればよいのかわからないから、触れなかった。 その沈黙を、冷静さだと思っていた。 今になって思えば、あれはただの怠慢だった。「ここへ来て、少しだけ生きている気がするようになったの」 夕方、リュゼリアはそう言った。 穏やかな声だった。 責める声ではなかった。 だからこそ、その言葉は刃になった。 王都の屋敷で、彼女は生きている気がしていなかったということだ。夫のいる家で、夫の名を冠した屋敷で、妻として暮らしていたはずの時間の中で。 彼女は、ただ削られていた。 雨音が、窓を薄く叩く。 ヴィルレオは机の上の紙を一枚取った。目を通していない書類の束から、偶然指に引っかかっただけの封筒だった。
◇ その夜、雨が降った。 窓を細かく打つ、静かな雨だった。嵐ではない。だが、春の前の冷たい雨は、館じゅうの空気を少しだけ重くする。暖炉の火がいつもよりあたたかく感じられ、廊下を歩く人の足音まで湿りを帯びるようだった。 リュゼリアは寝台へ移されたあとも、しばらく眠れなかった。 雨の音を聞きながら、胸の奥に残る咳の痕を感じていた。今日は昼にも強く咳き込んだ。朝だけではなかった。明日はどうだろう。明後日は。そう考えかけて、やめる。 先を数えたところで、咳は止まらない。 ただ、こうして雨の夜にも自分が“怯えるだけではない”ことに、ふと気づく。 怖くないわけではない。 怖い。 咳が消えないことも、少しずつ食べられなくなっていくことも、疲れやすくなっていくことも。 けれど、それと同じだけ、自分はまだ花の咲くところを見たいと思う。明日の風が弱ければいいと思う。白いマーガレットの花弁がどこまで開くのか、青いネモフィラがどれだけ色を深めるのかを見たいと思う。 それは生きたいということなのだろう。 病が消えなくても。 体が確実に蝕まれていても。 その二つは、同時に存在できるのだと、ここへ来てからようやく知った。 部屋の隅では、アイダが静かに本を閉じた。「奥様」「何?」「おやすみになれそうですか」 リュゼリアは少しだけ考えてから、微笑む。「ええ。……今日は少しだけ」 アイダは寝台の脇へ近づき、掛布の端を静かに整える。「夜中に咳が続きましたら、すぐにお呼びくださいませ」「ええ」「遠慮なさってはいけません」「わかっているわ」 そう答えながら、以前の自分なら呼ばなかったかもしれないとリュゼリアは思う。 耐えられる程度なら、一人で耐えた。 誰かを起こすほどではない。 朝まで待てばいい。 そんなふうに考え、自分の苦しみをいつも小さく扱っていた。 だが今は、必要なら呼んでもいいと思える。 アイダは迷惑そうな顔などしない。 ミナも、医師も、館の侍女たちも、自分の咳によって空気を壊されたとは思わない。 苦しい時に苦しいと言っても、誰かの時間を奪った罪人にはならない。 それを知れたこともまた、この別邸で取り戻したものの一つだった。 雨の音は途切れない。 窓の外の花壇も、今は冷たい雨に濡れているだろう。 白い花弁は重みで
咳の痛みが引いたあと、リュゼリアはゆっくり目を開けた。 窓の外は夕方に近い色へ変わっている。部屋の隅ではヴィルレオがまだ椅子に座っていた。彼は彼女が目を開けたのにすぐ気づき、身を起こす。「水は」「大丈夫」「熱は」「少し、落ち着いたわ」 そう答えると、彼はほんのわずかに息を吐いた。その安堵があまりにも露骨で、リュゼリアはかえって少しだけ困ってしまう。「旦那様」「何だ」「そこにいてくださるのはありがたいけれど」 言葉を選ぶ。責めたいのではない。けれど、その張りつめ方の中にいると、自分のほうまで余計に息が詰まりそうになる。「そんなに苦しそうなお顔をなさらないで」 ヴィルレオの眉がわずかに寄る。「していたか」「ええ」「……そうか」 それだけしか返ってこない。だが、それが彼なりの精一杯なのだろうともわかる。 リュゼリアは少しだけ目を伏せた。「咳が消えたわけではないの」「……」「ここへ来たからって、急に治るわけでもない」「わかっている」「ええ。頭では、ね」 その一言で、ヴィルレオが黙る。 そうなのだ。彼は頭ではわかっている。医師の説明も聞いている。余命半年という言葉も聞いた。けれど実際にこうして、穏やかな暮らしの中でなお咳が消えない現実を見せつけられると、身体のほうが受け止めきれていないのだろう。 リュゼリアはそのことを責められない。 自分ですら、こうして静かな館で花を見て、ひとり分の食卓で少しずつ食べ、土の匂いのする午後を知ってもなお、体が確実に蝕まれていることに時々ひどく驚くのだから。 穏やかさは、病を止めない。 ただ、苦しみの中で少しだけ呼吸をしやすくするだけだ。 それだけなのに、その“それだけ”がどれほど大きいかも、今の自分にはわかっている。「わたくし」 リュゼリアは小さく言った。「ここへ来て、少しだけ生きている気がするようになったの」 ヴィルレオが顔を上げる。「ええ。咳もするし、熱も出るし、立っていられない日もある。……でも、それでも、前よりは“生きている”の」 言葉にして、自分でもその真実味に少し驚く。 病んでいるのに。 弱っているのに。 たしかに少しずつ身体は遠ざかっていくのに、それでも前より“生きている”と感じる。 それはきっと、王都での時間がどれだけ生きている実感から遠かったかと
「……花は」 少ししてヴィルレオが言う。「昨日より開いたな」「ええ」 リュゼリアはようやく外から視線を離し、薄く笑った。「白のほうが先にたくさん」「青はまだ小さい」「でも、根はついたみたい」 その会話のあいだは、咳も痛みも少しだけ遠い。花の話をしている間だけは、自分が病んでいることを忘れるわけではないが、それだけではなくなれる。 けれど、その穏やかさも長くは続かなかった。 次に喉へ上がってきた咳は、朝より深かった。「っ……、ごほ、……っ、げほ、ごほ……!」 胸が一気に引き絞られる。長椅子の縁を掴む指に力が入り、視界の端が白くなる。喉の奥が焼けるように痛み、息を吸おうとするたびにまた咳が返ってくる。前かがみになりかけたその瞬間、反射的にヴィルレオが立ち上がった気配がした。 手が伸びかける。 けれど、その手は途中で止まる。 その一拍のためらいが、今の二人のすべてみたいで、リュゼリアは咳の痛みの中でそれを感じた。 結局、先に動いたのはアイダだった。すぐに水を差し出し、呼吸が整うのを待つ。背へ触れる手つきも、かつての焦りを失っている。彼女はもう、リュゼリアの咳の波を知っている。 対してヴィルレオは、長椅子の脇で立ち尽くしていた。 彼の顔を見る余裕はなかった。だが、その沈黙の重さだけでわかる。何かしたいのに何もできない、そのぎこちなさが空気へ滲んでいる。 咳は長かった。 ようやく落ち着いた時には、胸の内側に刃物の跡みたいな痛みが残り、目尻にはまた涙が滲んでいた。リュゼリアはゆっくり息を整えながら、差し出された布で口元を拭う。赤いものはない。それだけは少し救いだった。「……大丈夫」 掠れた声でそう言うと、ヴィルレオが低く問う。「それを、毎日か」 その声には、驚きと、怒りに近い痛みと、どうしようもない無力が混ざっていた。 リュゼリアは少しだけ目を閉じる。「毎日、というわけではないわ」「だが、あるのだろう」「ええ」 隠しても仕方がないことだった。「朝に少し。夜に少し。……あと、こういうふうに時々」 ヴィルレオは何も言わない。 その沈黙が、まるで彼自身の呼吸まで止めているように感じられる。「前より、増えているのか」 やがて、低い声が落ちる。 リュゼリアは答えるまで少しだけ間を置いた。 嘘をつくことはできたかもし